創始者 西野皓三


全身の細胞を活性化させることだけが

唯一いのちを輝かせる

本質的な方法です


そのエネルギーは

呼吸によって得られます


“息” こそが “生きる” の語源であり

“生き方”とは本質的に

“息の仕方”のことなのです


創始者西野皓三の足跡を振り返る


医学、バレエ、ショービジネス、武道と各分野で大成功を収め、西野流呼吸法の発見と普及へと至る道のりをたどる

医学の道へ

創始者西野皓三(19262021)は大阪府浪速区に生れたが、商工会議所の常任理事をしていた父親は富山出身で、母方の祖父も富山藩の勘定奉行をしていた。祖父は剣の達人で、西野が子供の頃、祖母から「おじいさんは偉い人だった。梁の上を走り回っていたネズミに『エイッ』と気合をかけて梁から落としたこともあったんだよ」と興味深いエピソードを聞かされた。戦争という時代の流れの中で、愛国少年だった西野は「生」と「死」人間という存在の不思議さを深く考えるようになる。中学時代は哲学書を貪るように読み、やがて関心は「生命の真実」「身体の構造」へと、次第に移っていった。身体を科学的に研究したいと医学の道を志し、1943年、大阪市立医専(現・大阪市立大学医学部)へ入学。医学を学ぶうち、人間の身体が持つ可能性の大きさや数々の生と死のドラマに立ち合い、身体と生命の真理を追求したい思いが高まる中、終戦を迎える。

セルゲイ・ディアギレフの書物との出会い

もともと体を動かすことが得意だった西野は、体を通して何かを表現したいという強い欲求が強くあり、音楽や演劇の世界に魅かれていった。そんなある日、古書店でヨーロッパの芸術界全体に多大な影響を与えた大プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフについての書物に出会い、西野の人生に大きな影響を与えることとなった。 ディアギレフは、バレエを総合芸術と捉え、20世紀を代表するアーティストを発掘・育成した天才振付家・プロデューサーである。 西野は医学者として身体を通して生きる意味や根元を追求することもやりがいのある人生だが、より根源的で包括的影響力があり、人間の中から輝くものを湧出させようとするなら、芸術の道を目指すべきと考えるようになった。

バレエの世界へ


ディアギレフのことを知り、バレエに魅せられた西野は1947年、欧米並みの本格バレエ団設立を目指した宝塚歌劇団に男役研修生として入団する。 日本全国から700人中の応募があり、合格者はわずか3人という厳しい選考だった。家族の大反対を押し切り、「美は真実に勝る」というディアギレフの言葉にインスピレーションを感じ、医師の道を放棄した。入団からわずか一年後の 1948年、異例の抜擢で宝塚音楽学校のバレエ講師に就任し、24歳の若さで宝塚歌劇団月組公演の振付を担当。 1951年、バレエを本格的に学ぶため、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ・バレエ・スクール高等専門科に留学する。世界的な振付師アントニー・テューダー、ディアギレフが育てたソリストのマーガレット・クラスケに師事した。帰国後の1954年、27歳で大阪に西野バレエ団を創設し、翌年には「ジゼル」を全幕上演する成功を収めた。

ショービジネスへの進出


各テレビ局が開局し一般に普及し始めた時代、西野は西野バレエ団の活動と並行してテレビ番組や映画のプロデューサーとしてエンターテインメント業界にも活躍の場を広げていった。 1964年以降、数々のテレビ番組の立ち上げに貢献。 日本放送協会(NHK)、日本テレビなどの人気音楽番組の構成・脚本・プロデューサーとして活躍し、トップスターを育てた。

人間の無限の可能性を探る~武道と西野流呼吸法の発見


西野は、西洋文化の高い到達点であるバレエに秀でるだけでは、人間の肉体や能力の究極的な限界を探求するには不十分だと考えるようになった。 身体の可能性の本質は、東洋独特の「内なる資質」にあるのではないかと考え、1975年、50歳で合気会本部道場に入門。 合気道第二代道主・植芝吉祥丸に師事し、5年という異例のスピードで本部師範となった。


稽古中のある日、武術の経験が長く自分よりも若くて強い相手を、呼吸を意識することで難なく投げられることに気づいた。 このことから、気のエネルギー、つまり生命力をコントロールする秘訣は呼吸法にあると悟った。その後、さらに動きの真髄を求めて、実戦的で最も厳しいといわれている「太気拳」を創始者の澤井健一師範から学んだ。太気拳とは、大成拳(意拳)創始者王郷斉老師から唯一、外国人として学んだ日本人の澤井健一師範が老師の許可を得て日本で創始した「武道」である。西野は最終的に太気拳七段・教士となった。


西洋バレエや合気道、太極拳などの伝統武術の動きの本質からインスピレーションを受け西野流呼吸法を創始した。

西野流呼吸法の普及


少数の弟子たちとの数年にわたる実戦を交えた稽古を経た1985年、東京・渋谷に西野塾・西野流呼吸法の東京本部を設立。西野流呼吸法はテレビや新聞雑誌で紹介され、経済界、医療界、スポーツ界、音楽界、法曹界など各界の著名人を含む老若男女が日本全国から生徒として集まるようになった。講談社より1987年に刊行された『西野流呼吸法』は現在までに31刷を重ねている。西野流呼吸法は海外でも話題となり経済誌『ビジネスウィーク』やCNBCネットワークで取り上げられた。 1997年、講談社インターナショナルより西野流呼吸法の初の英語版『The Breath of Life』が出版。海外からは女優のシャーリー・マクレーンや作家のマイケル・クライトンも来塾した。

 西野は2005年から2007年まで、日々西野流呼吸法を直接指導するかたわら大学教授らと共同研究を行い西野流呼吸法の細胞レベルでの効果を検証。 その論文はPubMedで公開されている。 また、朝倉書店で出版された「呼吸の事典」では20ページにわたり西野流呼吸法が紹介されている。1994年第4回国際アジア伝統医学会議特別講演、2007年第47回日本呼吸器学会学術集会基調講演、2008年第8回日本抗加齢医学会学術集会招待講演など、主要な医学会で西野流呼吸法に関する学術講演を行い、西野流呼吸法の効果を科学的見地から解説した。

201892歳になった西野が老若男女を問わず数多くの塾生に稽古をつける様子を特集した記事が、デイリースポーツ誌に掲載された。西野は気の新たな境地を開拓すると同時に対気の稽古を通じてすべての塾生に直接指導することを実践し続けた。財団法人合気会評議員、大阪国際女子大学客員教授、大阪市立大学大学院医学研究科外部研究員などを歴任。


西野皓三は2021年にこの世を去るまで、生涯にわたり人間の生命の不思議さと命を活かし輝かせる方法を探求し続けた。

潜在能力を湧出し

運命を開花させる

人は誰でも、それぞれにすぐれた能力を持っている。だが、ほとんどの人はその能力を発揮することなく一生を終わる。その能力とは潜在能力のことである。潜在的にみれば、人間は一人一人がちょっとした天才であり、超能力者であるといっても決していい過ぎではない。大多数の人々はその能力の何分の一も出さずに日々を送っている。天が与えてくれた "人間としての生命"の可能性を開花させずに終わるということは、 なんとも不本意なことではないか。

しかし、無意識にではあるが、誰にでも身体の中から湧き起こってくるサムシング(潜在能力)をはっきりと感じることができるチャンスがある。青春という一瞬の時期がこれだ。青春、それは自然に生命の花が開く、人生にとって 唯一のときである。おそらく、こうした状態が続いていれば、人間はなんでも成し遂げることができるだろう。

本来そうあるべき人間が、年をとるにつれて潜在能力が枯れてしまったように見えてくるのは、どういうわけだろうか。それは、身体に若々しい生命のパワー、"強靱さ"が欠けているからである。この生命のパワーを、"強靱さ"を身に付ける方法はないのだろうか。私は医学、バレエ、武道を通して人間の無限に開かれた"生命の輝き"を、ひたすら追求してきた。そして、ついにそれらすべての私の人生の結晶ともいうべき西野流呼吸法を創り出す ことができたのである。

西野流呼吸法とは、

スリムで強靱な身体を創り

潜在能力を湧出させ運命を開花させる

科学的にして、神秘的な方法なのである。

西野皓三 

『西野流呼吸法』 講談社 1987年